人口2万人ほどの会津美里町に蔵を構える男山酒造店。
創業は1865年で、最盛期には一升瓶換算で年間20万本を出荷していました。
代表銘柄の『会津男山』は、福島県内ばかりでなく、関東でも広く飲まれていたといいます。
しかし、人手不足などの影響で、蔵は1998年に営業を休止。
そのまま廃業にするところを20年ぶり復活させたのが、
先代の甥にあたる小林 靖さんです。
小林さんにとって、蔵は母の実家―おじいちゃん・おばあちゃんの家。
蔵の中でかくれんぼをしたり、縁側で涼んだり、庭で花火をしたり。
そんな思い出の詰まった場所を、どうしてもなくしたくありませんでした。
幼い頃から通った酒蔵を守りたい―。
その一心で、家族を連れて千葉県から移住した
小林さんの想いに耳を傾けてみませんか。
IT企業から酒蔵へ
大人になってからも蔵から足が遠のくことはなく、就職しても結婚しても、休みのたびに訪れていた小林さん。しかし、蔵が休止し、訪れるたび蔵の中にほこりが増えていくのが気になっていたところ、ついに「蔵をたたもうと思っている」という話が。その瞬間、「とにかく私がやります」と声を上げていたといいます。
しかし、妻の真由子さんは猛反対。それもそのはず、千葉にマイホームを建てたばかりだったのです。3歳の子どもを抱えて、40歳から畑違いの世界へ……? 誰もが不安になるところでしょう。ただ、小林さんの中に「あきらめる」という選択肢はありませんでした。
小林さんは、IT企業で長年プロジェクトマネジメントに携わっていました。開発が計画通りに進むよう、スケジュールやコストなど、あらゆるものの管理を行う仕事です。その手法を生かし、真由子さんの不安をひとつひとつ聞き出し、丁寧に解決していくことに。仕事は、生活は、子どもの暮らしは……と、数えきれないほどの不安と向き合うことになりましたが、それは新生活への準備につながりました。「勢いで決めなくてよかった」と小林さんは振り返ります。そして3年後の2020年、家族は千葉から会津へと移住を決めたのです。
最初のひと搾り、その味は
酒造りの素人だった小林さんがまず頼ったのは、福島県清酒アカデミーで長く講師を務め、「日本酒の神様」といわれる鈴木賢二さんでした。勤め先だった県の施設に直接電話をかけると、蔵を見に来てくれ、何から何まで親身にアドバイスをしてくれました。さらに、会津の酒蔵での修行に、ベテランの杜氏……。すべて鈴木先生の紹介で生まれた縁でした。
「夜でもいつでも、困った時には相談に乗ってくれて、『ちょっと見に行くよ』とフットワークも軽くて……。あの温かさが『神様』といわれる理由だと思っています」
修行を終え、いよいよ我が蔵での初めての酒造り。しかし、会津の冬は想像以上に厳しいものでした。雪で煙突が折れたり、駐車場が雪で埋まったりと、住んでみなくてはわからない自然の猛威が。その度に、杜氏や蔵人たちが力を貸してくれました。
「もちろん毎日必死でしたが、それでも全くの力不足なんです。すると、『しょうがねぇなぁ』と言いながらみんな手を差し伸べてくれる。温かな会津の風土だと思いました」
初搾りの酒が溢れてくると、杜氏が利き猪口にそれをすくい、渡してくれました。それを口にした瞬間―小林さんは号泣していたそうです。
「みなさんに『味はどうだ?』と聞かれましたが、涙の味しかしませんでした。しょっぱい酒―でも、本当に美味しかったです。あの味は一生忘れないと思います」
あの時のことを振り返るだけで、小林さんの目には涙が浮かびます。
『わ』と『回』への想い
初めて搾った酒に名付けた『わ』には、蔵再生を支えてくれたたくさんの方々、待っているお客様といった“人の輪”への感謝が込められています。『回』は、3回目の造りを終えた時に名づけたもの。
『回』という文字は、二重の輪に見えます。人の輪への感謝という原点の気持ちは変わっていません。内側の輪は、今まで支えてくれた人たちの輪。外側の輪は、福島、そして世界へと波紋を広げていきたい―というステップアップの気持ちを込めて。
日本酒は、一人では造ることができません。たくさんの人の輪が生み出した『回』を、ぜひじっくり味わってみてください。