・斎藤 美幸(さいとう みゆき)さん
福島市生まれ。大学卒業後、東京のテレビ局で報道ディレクターとして活躍。
蔵を継ぐつもりはなかったが、東日本大震災を機にUターン。
2015年から蔵の経営と酒造りに携わり、2024年、息子の湧生さんへとバトンを渡した。
・代表取締役社長 斎藤 湧生(わくお)さん
福島市生まれ。大学卒業後、福島県内の銀行に就職。
2年後に金水晶酒造へ。
銀行での経験を生かして数字面から蔵を支え、福島市ならではの商品開発などに取り組んできた。
2024年、蔵の移転・新設と共に、代表に就任。
福島県に酒蔵は六十軒以上。
ただし地域には偏りがあり、県庁所在地である福島市には、今やたった一軒を残すのみとなりました。
それが金水晶酒造です。
多くの蔵と同様に、金水晶酒造も何度も存続の危機を経験してきました。
東日本大震災とコロナ禍をようやく乗り切ったかと思うと、2022年の地震では蔵が全壊認定を受けます。
いつ蔵を閉めてもおかしくありませんでした。
東京に家族を残して単身Uターンをし、震災後の蔵の立て直しに尽力してきた4代目の斎藤美幸さん。
息子の湧生さんは、コロナ禍のさまざまな対応や蔵の移転・新設に奔走しました。
2024年は、金水晶酒造にとって節目の年。
美幸さんから湧生さんへの代替わり、そして蔵の移転・新設を行いました。
「蔵を残す」という強い思いを持ち続けてきたお二人にお話を伺いました。
1%でも可能性があるのなら
2011年の東日本大震災後、金水晶酒造は美幸さんが立て直しのために尽力してきました。
それがようやくひと息ついたと思った2022年3月、再び蔵を大きな地震が襲います。
最大震度6強、福島市では震度6弱を記録。
一見するとなんともないように思えた蔵でしたが、正式に診断してもらうとかなりの重症で、やがて全壊認定されました。
酒造りに欠かせない釜へのダメージが特に大きく、1年は酒を造れないかもしれないという状況に。
「これを機に蔵を畳もうか……」という考えが美幸さんの頭をよぎりました。
――そこを支えたのが、当時専務だった湧生さんです。
「1%でも可能性があるのなら、蔵を続けたいと思っていました」
東日本大震災の時も、2022年も、「待ってるよ」というお客様の声が聞こえてきていました。
湧生さんはあちこち駆けずり回り、代わりとなる釜を発見。
釜のサイズが変わったことを機に造りの方針も見直しました。
被害を受けた蔵でどうにか酒造りを続けてきましたが、今年3月、金水晶酒造は蔵を移転・新設。
社名変更、さらには湧生さんへの代替わりと、大きな転機を迎えました。
「蔵を継いでほしいと言ったことは一度もありません。
でも、なくなると思っていた蔵をこうして残すことができて、そして受け取ってもらえて、本当にありがたいですね」と美幸さん。
四季の蔵
新たな蔵の名前は「四季の蔵」。
大きな理由は、「四季醸造」を始めたからです。
一般的に、酒造りは菌が繁殖しづらい冬に行われます。
農家の仕事がなくなる冬に酒造りを行っていたという背景がありますが、
今や兼業農家も少なくなりました。
そこで、四季を通して造りを行う蔵が増えているのです。
「四季醸造のメリットは想像以上にたくさんありました。
年に一度製造するよりも、在庫管理やメンテナンスがぐっと楽になったんです。
設備も一新して酒の質もかなり上がりましたし、ますます良い酒をお届けできると思います」
と湧生さんは自信を覗かせます。
「『金水晶』のコンセプトはずっと変わっていません。
福島市唯一の蔵ですから、誰にでも飲みやすい、広く愛されるお酒にしたいんです」と美幸さん。
『金水晶』は福島の米だけを使い、誰にでも飲みやすい味わい。
ここに、移転したことで荒川の水が加わりました。
荒川は、13年連続で水質日本一に選ばれています。
造りを一新したことで、さらに多くの人に愛される銘柄になっていくことでしょう。
福島の良さを伝える
美幸さんがずっと大切にしてきたのが、「福島の良さを酒で伝える」こと。
蔵の移転で、また新たな展開が生まれそうです。
なんといっても、移転した先は観光地のど真ん中。
年間30万人が訪れる公園施設「四季の里」のお隣といってもいいような場所にあるのです。
近所にはブルワリーやワイナリーもあり、「吾妻山麓酒街道」という構想もあるとか……?
これからの発展が楽しみな場所です。
「ここに蔵があるからこそできることを考え続けたいです」と湧生さん。
美幸さんも、酒造りからは退いたとはいえ、まだまだ金水晶酒造と福島のためにできることを考え続けています。
福島市を訪れた際には、ぜひ新しい蔵へ足を運んでみてください。